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June 30, 2005

偉大な先生に学ぶ その2

 青山の鈴木先生が偉大な師に学ぶことについて論じていらっしゃる.ここに出てくる「すごい先生は一般に,『目線が高い』」という指摘はなるほどと思わせられる.

 そもそも大学院で研究の修業をするという時に,師と同じ研究をすることはまあ考えにくいのだが.このような場合に,自分のテーマの知識について師のほうが良く知っているというのは,それは院生としてあまりに「勉強が足りない」というものである.そうなると指導する側は,その学生が研究者として望ましい進展をしているかどうかの判断をもって,指導と代えることになる.このとき,「良い先生」は一般に研究者の先輩としてのノウハウを沢山持っていることになる.この目線の高さは,教わる側にとっては重要であろう.
 ある先生は,院生に何かを教えるというより,院生の報告に対して「面白いねえ」「面白くないねえ」でスパッと評価を与えていた.この「先輩としての『目』のよさ」が,何より先生たるゆえんだったような.(もちろん,このタイプの指導が全く通じないタイプの学生もいる.この場合,手取り足取りになることになりやすい).

 また,指導とは別に,状況に布置された学びの環境も重要.
 一例として,吹奏楽や合唱の指導の話をしたい.楽器を高校になってから始める生徒がいる.始めた時には中学からやっている生徒には明らかに水を分けられているが,3年くらいになると,中学からの6年のキャリアと,高校での3年のキャリアの間に,大きな違いがなくなることが多い.大学でも同じで,大学から始めても,卒業までには長いキャリアの学生に対して,遜色ない実力を持つようになることはざらである.
 ではどこまで伸びるのか,実のところ「その個人が所属する団体の先輩が到達する実力の程度まで」なのである.初心のものは,自分が日常的に見聞きすることができる先輩のレベルにまでは近づく.それ以上になるには,よほどの努力をするか,指導者が極めて有能か,または,その個人が「恐ろしく目が高い」かである.
 現実問題として,のできるできの悪い学生のレベルを飛躍的に伸ばすことのできるような有能な指導者は稀のように思われる.結果として,自分が目の当たりにする周りのメンバーの実力が高い場合,同じように伸びていくことになるように思われる.であるからこそ,名のある大学,師匠といった,そもそも良い環境を持っている可能性が高いところを志向するのかもしれない.
 偉大な師,名のある大学に行かなくても,力をつけることは可能.ただ,楽に力をつけたかったら,師も場所も選べ,ということであろうか.

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