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September 28, 2006

ロイヤル=コンセルトヘボウを聴いた(再掲)

アムステルダム ロイヤル=コンセルトヘボウオーケストラ

マーラー第3番 指揮 リッカルド=シャイ- Alt. 2002.11.12 石川県立音楽堂

 今日ほど、すべての音をこの記憶に残すことができないわが身を嘆いたことはない。

 日本で、海外のオケが、3番を演奏することはそれほど多くない。さらに、東京と大阪以外で、3番のプログラムを聴くことができる機会はほとんどない。稀有のプログラムをここ金沢で聴くことになった。私のとった席は、二階バルコニーA席、14,000円也。この価格を東京で、このオケとこのプロで聴けるか?それだけでもウレシイというものである。

 少し楽曲の話をしよう。今から10年程前、マーラーは「ひび割れたロマンティシズム」「悲しみのマーラー」などと形容され、その「影の面」が強調されていたように思う、憂鬱な生活、悲劇的なエピソード、その中で演じられる極端な甘美と長大な楽曲。それはしばしば、4番や5番のアダージョ、8番(千人の交響曲)などの高い評価につながっている。そしてシノーポリの偏執的とも言える解釈や、ショルティ=シカゴの豪華、バーンスタインの華麗、あるいはインバルの成功などを引き出した。その中では、楽曲の長さか録音の少なさか、3番はそれほど一般に語られない曲であった(今日ではマーラー研究の中心となる曲のひとつであるが)。

 しかし、私は少しだけ異なる印象をもっている。マーラーはベートーベン以上の「歓喜」の作曲家である。その苦闘の生涯、悲劇性・憂鬱をもってして初めて生まれる歓喜への渇望。「善美なるものへの憧れ」が彼の主軸であると考えている。それは、多くの楽曲に明と暗、静と動、咆哮とすすり泣き、アッチェルとリタルダンドなどの二面性を併せ持つところに見られる。また、その二面がほとんどの楽章で繰り返し提示されるところにマーラーらしさがあるように思う。咆哮は野獣のごとく、甘美なささやきは天使のごとくデフォルメするところに成功があると、「成功したマーラー」の諸録音が物語っているのでないだろうか。3番であれば、個人的にはインバル(演奏技術自体は高くないが)、シノーポリ、カラヤンの最終章あたりを勧める。

 さて、本日の演奏である。最も激しくも優しく、明と暗が繰り返される楽章が第1楽章である。マーラー自身30分を超えるこの楽章には驚いていたようで。その解釈と演奏はその一曲を大きく左右する。ただし今日の演奏は、少し固さが残っていたようである。3番自体非常に各パートのソリストの力量が問われる曲であるが、この楽章ではかなりのソリストの演奏に揺れとブレが見られた。また、8人のホルンもやや揃わず、トロンボーンもやや割れ気味。座席のせいであろうかコンサートマスターも線が細かった。要は、指揮者が極めて丁寧に一つ一つを鳴らした結果、全体としてのまとまりがやや欠ける印象をもった。個人的には最も好きな楽章だけあって、少し思い入れが強すぎただろうか。それでも20分過ぎからでてくる「南から突風」以降はこなれてきたように思う。

 第2楽章はこれと反対に天上の世界を描いた「花の章」である。ここは比較的まとまりがよく、木管がよく頑張った。全体にいえることだが、コンセルトヘボウの木管・低音弦は秀逸。艶やかな音としっかりしたアンサンブルが聴けた。テンポはかなりゆっくりとしていただろうか。

 第3楽章。ここも個人技の必要な楽章である。ここへ来ると、先の木管をはじめとする各パートがよく頑張ってくる。途中2度出てくる打撃的なトランペット・トロンボーンの鋭さも、ここでは締まったいい演奏を聞かせていた。この楽章で特筆したいのは舞台裏から聞こえるポストホルンである。とにかく正確無比、かつダイナミクスもアーティキュレーションも非の打ち所のない美しさである。最後の部分もこみ上げる止揚(アウフヘーベン)感があってよかったぞ。

 第4楽章。ここではアルトの独唱があるが、当初予定のミシェル・デ・ヤングが病気で、代わりに来日中のナタリ-・シュトゥッツマンが歌った。いや、実に透明な声を持ったアルトである(当時私は知らなかったが,稀代のコントラルトがたまたま日本公演だったということで,代役だったのだそうで)。ドリス=ゾッフェルやヘレン=ワッツよりもずっと良かった。ニーチェ(ツァルストラ)の我々への啓示というよりはむしろ聖母の愛撫にも近い優しさと深さを持っていた。ここでは弦とピッコロのうわずったような単音が繰り返し提示される。このすすり泣きが美しく切ないほどこの楽章は美しいが、なかなかのものだった。逆に惜しいのは同様に繰り返し提示されるオーボエの旋律、すこし装飾がきつかったように思われる。さらに一ヶ所ミスがあった。本人が一番残念だったのだろう、うつむき加減であった。

 第5楽章、さて、ここではたくさんの天使が我々に語りかける。時に子供の元気が良く分かる部分になるが、今回は実に統制のきいた女性と児童合唱であった。それが天上の浮揚感や甘美さをよく表現している。今回の演奏の中でよかった部分のひとつである。女性にも高校生が多く、また若い人がほとんどであることもあって、全体にビブラートの少ない透明感もそのよさに貢献していたのではないかと思う。

 第6楽章、演奏の質・解釈の質ともに今回のベスト。初めて弦の美しさが分かった。甘美かつ感傷的、それでいて優しく諭すような旋律と和声がたゆとうように包み込む。それでも第一ヴァイオリンが何となく線が細かったのは、対面に位置する席のせいだったかもしれない。特にコンサートマスターの音が薄かった。心残りである。しかし、最後にかかって木管が、そして金管が、最後に打楽器が作り上げてゆく巨大な構築物は、カタルシスを与えるに十分であった。特にトランペットで再提示される主要主題からはじまる最後の部分から後、次第に水平に広がっていくような和声の重なりと、神への祈りにも似た各楽器の音は、シャイ-ならずとも思わず目を閉じて天を仰ぐ気分になった。

 結論からいうと、自分の思い入れと違う部分が違和感を与えた部分はあったが、全体としては楽しかった。シャイーは実に丁寧に楽譜を追ったと思う。オケを完全に鳴らしきることに腐心して、全体のまとまりがやや拡散気味になったのが返す返すも惜しまれる。しかし100分を超える演奏時間の中で、私は最低でも85回は背筋の震えを感じた。ずっとあこがれた曲にじかに触れた思い。それが今日の最大の喜びだったかもしれない。もしこの曲を振りながら最後に息絶えるとしたら、私はこの世に思い残すことはないかもしれない。

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