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September 13, 2006

マドラーの先に見えるもの(再掲)

初出 1999年頃
「マドラーの先にみえるもの」

 しばしば酒を飲みに一人でバーに行くことがある。

 ジャズの流れている店で、自分で濃くつくったジントニックやウイスキーの水割りをやりながら、あれこれものを考えるのは非常によいものである。実際、研究のアイディアや学習指導の新しい計画を練るときに、家にいたのでは廻りの家事が気になって仕事にはならないのだ。

 いつも通りボトルとロック、そしてミネラルが並べられ、今日はスコッチの“Famous Grouse”を注ぐ。3・4片の氷を落とし、ウイスキーと同量の水を注ぐ。ここでおもむろにマドラーでかき回すのである。

 マドラーの先で、窮屈そうにグラスに沈む氷は回転し、まわりの液体に透明な流れをつくって溶け出している。シュリーレン現象という効果なのだそうだ。

 「ん!」と小さい声をあげながら、グラスの先の氷とマドラー、そして自分の手を眺めた。そして心には一つの思いが。

 「どうして、マドラーの先を見ていられるんだ?」

 考えてみれば当たり前のことである。マドラーを手にもってかき回すのに何の技術も必要はない。しかしマドラーはあたかも「指の延長」として機能している。そしてマドラーは指ではない。「道具」なのである。まるで身体の一部として機能する道具。道具としては実に「透明な存在」としての彼が、そこにいる。

 きっと自分は、そして我々は、これまで何十年というあいだ、この形状を持った「道具(マドラー・はし・ストロー等々)」を駆使してきたことだろう。小さいときにはこれを操ることさえ難しかったことも思い出せる。そう、いつしか我々はこの道具に「熟達」していったのだ。そして指とマドラーの接点は意識することもなくなり、マドラーの先の結果だけを見れば良くなったのである。

 認知心理学者の佐伯胖はそのインターフェース論で、人間と道具の接点を「第一接面」とよび、道具とその向こうに広がる世界との接点を「第二接面」とよんだ。熟達は第一接面を透明にし、第二接面だけがのこる。マドラーと手、そして水割りの間にもこの関係は厳然と生きている。

 「そうなのか」と一人つぶやいた。

 考えてみれば、似たような話はあちこちに転がっているものだ。

 ジャズのあるピアニストは、自分の即興演奏が上手くいっているとき、「指が鍵盤と一体になり、まるで指がハンマーになってピアノの弦をたたくよう」といっている。これだって、ピアノという道具が透明な存在と化し、身体と音楽の世界が接していることを言っているのだ。

 彼のピアノ歴はいうまでもない。きっと沢山の経験と練習を経ているだろう。その結果がこの完全なる自由を手にしたと言っていいだろう。

 「凄いもんだ」と新しい氷をグラスに落とした。自分だってピアノは弾いている、ジャズのバンドも、アドリブの勉強もしたことがある。歌うだけだったらたしかにその自由、分からない訳でもない。でもピアノとなるとその心境にはまず近づけないな。残念だが、ちょっとかなわない。

 でも、満足だ。たかだかバーのカウンターに坐って水割りを飲んだだけで、彼の偉大なる音楽の秘密を知ってしまったような気がして。ウイスキーがますます旨くなる。

 「帰省したら、一日中やってみるかな。ピアノ」

 そんな思いが、アルコールと一緒にまわっている。流れている曲は、アートブレーキー。もし俺の記憶が間違っていなかったら、そのピアニスト、短い間このバンドにもいたはずだ。

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