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August 03, 2010

学生に課題を潤沢に与えるべきではない

 漱石の「坊ちゃん」は,親譲りの無鉄砲から物理学校(今の東京理科大)に入学する。成績は悪かったが3年経つとそのまま卒業させてくれた(職まで世話してくれたのだが)。そのなかでこんなくだりがある。

 おれの生涯のうちでは比較的呑気な時節であった。

 大学がレジャーランド化して久しいともいわれ,大学教育の「実質化(厳しくやれよ,くらいの意味)」が叫ばれているが,まあ明治の頃からそれなりに大学生活というのはある程度の自由が与えられていたらしい。
 逆説的ではあるが,何かに打ち込むための時間を確保するには,できる限り何かに取られる時間は少ないほうがいい。何かに打ち込みたいと思ったとき,他の課題が多くて時間を拘束されてはどうにもならないからである。大学の4年間,最初から「これ」というものがないのは当たり前で,いろいろなものに触れるうちに打ち込む気になるものが出てくるのである。思い立った時に,講義と課題はたくさん,青年期に糧となる交友や恋愛の時間と天秤にかけなければならないようでは,それは打ち込めないというものである。
 それがいつの間にか,大学教育が「教員から提供されるもの」のウエイトが増え,学問の質が随分変わってきた。「経営感覚」という名の下に,大学の教育がまるで企業の勤務と同じようにみなされ,精勤してよい成績をとることが個人の評価のまるで中心にすえられているようである。大学がもしそのようなものだったら,むしろ学生に給料を払って「達成目標と報酬」の一貫性がはかられた方が余程効果的と思われる。

 しかし,大学とか学問とかいったものは,そういう「勝ち馬に乗る」姿勢とはやや内容を異にする。「よく分からないもの」の周辺をうろうろし,とりあえず眺めたり舐めたりしてその価値を確かめ,たとえ価値がなかったとしても損はしないようにあらかじめ安全弁も用意されている。そういう中だから「未知の世界の扉」を開ける蛮勇もふるえるというものである。とんでもない失敗をやらかしたら,その分評価が下がるようでは,おちおち自由な勉強はできない。大学入試の勉強よろしく,答えの分かっているものを正確に書き記すような活動に矮小化されてしまうのである。それは勉強であって,学問ではない。

 大学は己の老婆心を発揮して,学生に課題を潤沢に与えるべきではない。学生が課題を感じた時に,自らそれを追求できるような姿勢と,その時に必要な「資源」を潤沢に用意するべきであろう。かくして大学には,元が取れるとは思えないほどの資源が投入され,社会人から見れば不当なほどの「ぬるい自由」が提供されることになる。そこに意味を見出せないとしたら,一生懸命働いて,たっぷり儲ける「スクルージ」になることを勧めたい。

 

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