知識・関与・動機づけ
学会の3日間、今回は学習指導や動機づけのセッションやシンポジウムを中心に参加した。何人かの先生の研究や実践をみながら、共通するものは何かと考えると、次のようなことかなあと。
・学習のつまづきや困難は、具体的な作業をすることの困難ではなく、「それがどのようなものであるか」の意味を理解すること、表象することの難しさが先にある。
・ということは、学習者にとって表象すべき知識が利用可能になっていなければならない。もし知識がなければ、理解できる形でとりいれられなければならないし、既にもっている知識の場合、その学習場面で取り出せるかたちになっていることが必要。
・利用可能になるための支援はいくつも考えられる。しかし一つ一つの支援は多くがdomain-specificなため、効果的に使用するにはかなりのコストがかかりやすい。
・これらを学習者の主体的活動にするためには、本人たちが自分からやりたいと思う動機づけが重要だが、動機づけが高い事自体、たいてい「既に主体的な学習者」であることが多い。学習が「勉強(仕向けられた努力、の意味)」とみなされている時点で、動機づけは低い。
・学習方法にせよ動機づけにせよ、学習者が「対象に対して主体的・持続的に関与」することをいかにして支えるか、ということに尽きる。分かりやすいとか楽しいなどという要素は、あくまで関与を持続させるための「足場」であって、それそのものが学習を支えているわけではない。
ここまで考えると、学習の成立前後には「知識が利用可能になること」があり、利用可能になるためには「対象に対する主体的・持続的な関与」が必要というごくごく当たり前のところだけが残るという話である。若い女の子が没頭するメイクにしても、小学生が勉強そっちのけでサッカーに興じることも、オバちゃんが韓流スターに熱中してハングルまで身につけることも、どれも「対象への関与」だけが残って「勉強」が消失しており、一人一人は主体的で動機づけの高い学習者として仕立てあげられている、ということになろう。
~バカ、とか~オタクを育てるにはどうすればいいか?みたいな話に次第に成長するこれらのプロセス。それを学校というシステムの中に布置(embed)することの難しさ。反対に、それが可能ならたとえ教材が分かりにくかろうとハードルが高かろうとどうでも良くなる学習のややこしさ。これから向こう10年は、いやその10年の先くらいの10年は、ひょっとするとそういう話にパラダイムシフトしているのではないかと本気で思った今回の学会であった。
今回聞いた、「みんながつまづくなら、それはつまづきではなく、カリキュラムを作った人自体がつまづいている」という名言は、これまでの学びのシステムから、かなり異なるシステムへのシフトを予感させた。
(追記)
あれほど難しいといわれる「濃度の割合文章題」、いっそ「市販のカルピスウォーターに一番近いものを200ml作るためには、何%の濃度にすればいいか」本気で考えさせるような作業にしたら、全く目標も動機づけも変わって、違う知識獲得課題になるのかも(もちろんdomain-specificに終始する危険はあるが)。そのためには、日本の小学校は大量のカルピスを教材として購入する必要があるな。一つ一つの課題を、そういうタイプのものに変えていったとしたら、当然教育予算は莫大である必要があるだろう。しかしひょっとすると、教育への投資というのは、案外そういうところで決定されるのかもしれない。
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