September 30, 2016

荷方の教育実践知識

 20代の時,とある塾の教務主任なんてものをやっている時。毎月のカリキュラムに連載していたちょっとした書き物。今見ると恥ずかしいようなものもあるが,歴史として残しておくことにしよう。
 それでも「まだ院生なのに結構ちゃんと書いてあるよ」と紹介いただいたこともあったなあ。励みになった。
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「内発的動機付けと外発的動機付け(3月号)」 

 教師や両親、友達などの社会的存在からほめられたり、叱られたりすることによって、学習意欲は増減します。また、自分で問題が解けるようになったり、達成感を感じたりしても学習意欲は増減します。このようなタイプの方法で学習意欲を操作するアプローチを動機付けといい。前者を外発的動機付け、後者を内発的動機付けと言います。
 前者は即効性がありますが、慣れてしまいやすいので効果がすぐに薄れます。後者は獲得が難しいですが、永続性と強力な有能感を与える長所があります。

 「ほめ方の上手な先生」、「叱り方の上手な先生」になることももちろん大切なファクターですが、やはり生徒がついてくるのは「問題の解ける楽しさ」「学習活動そのものの楽しさ」を伝えられる先生です。そう思いませんか。
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「メタ知識と先行オーガナイザー(4月号)」 

  まず、次の文を考えよう。
 「やり方は簡単だ、まず同じものを探し、一つにまとめておく。今度は右と左で同じものをまとめておくだけで良い。気をつけなければならないのは、右から左へ・左から右へ動かすときは、逆にしておくことを忘れないことだ。」
 この文だけで、「文字式の計算の方法」とすぐ解るならば大したものである。我々の生活は具体的な行動の連続であるが、その一連の行動をまとめて呼ぶためのさらに高レベルの(メタの)知識がある。これがメタ知識である。授業において、これから指導する具体的な内容が、どのような事をするためにあり、他の指導内容とどのような立場にあるかを先に指導することは、生徒にメタ知識を指導することであり。これによって、生徒の理解はスムーズ・確実になると考えられている。
 学習におけるメタ知識の事前提示を、先行オーガナイザーと呼ぶ。ただ単に指導内容をわかりやすく教えるだけでなく、どういう出題のとき使うのか、使えない類題は何かなども、生徒に同時に教えておきたい。
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May 17, 2015

デジタルコンテンツ時代における,新しい「ドルトンプラン化」。

 いくつもの大学が,自分のところの授業をストリーム配信しようという試みを始めている。行き着く先は,クオリティの高い教育コンテンツが世界中で共有されるというところにある。私のようないい加減な教師はたちまち職を失いそうな話だが,「自分の欲しい内容が自由に得られる」という意義はとても大きいだろう。
 学習者のニーズにあわせて特化された環境を用意するというのは,別段今に始まった話ではない。今から約100年前,パーカーストによって初められた「ドルトン・プラン」がそうである。ドルトン・プランは今の理科室や音楽室のような特別教室の仕組みを確立した方法で,生徒は各教科の先生が待っているそれぞれの教室(実験室)に行き,先生たちが揃えた環境の下でより効果的に授業を受けるというものである。世界中でストリーム配信されるそれぞれの講義を自ら選択し,授業を受けるというのは,言い換えれば世界中の教室に自ら趣く「デジタル・ドルトンプラン」のようなものであろう。
 この場合,デジタル配信と従来のドルトンプランの違いといえば,教室のように実際に参加できるという性格が弱いこと,実習などには向かないこと,そして教授者の目はほとんど届かないということである。結果として,個に合わせた指導(指導の個別化)のチャンスはかなり失われる。リアルタイムの現場にいないというデメリットは,われわれが考えるより大きい。
 何にしても,これまでの学校教育がもつシステムから大きく変化する可能性を持っていることは確かだが,何でも変えれば夢見る世界が待っているというものでもない,長い時間で培われた「対面の有り難み」を失わないように進めていく必要はあるだろう。

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December 30, 2014

【開催!】 カナビ×ムサビ とことん語ろう アートの授業

 金沢美術工芸大学 荷方研究室では,武蔵野美術大学の三澤一実先生と共同で,シンポジウム&ワークショップ「カナビ×ムサビ とことん語ろう アートの授業 〜ビダイが考える美術教育の可能性〜」を2015年1月24日に金沢美術工芸大学で開催します。
 アーティストは美術教育にどのような貢献ができるか?もっと楽しい美術の授業はどうしたらつくれるか?そんな素朴な問いに2つの美大が取り組みます。

13:00〜13:15 開会と趣旨説明
13:15〜15:15 鑑賞授業ワークショップ「旅するムサビ inカナビ」
        休憩
15:30〜16:30 ミニプレゼンテーション
        三澤一実(武蔵野美術大学) 
        荷方邦夫(金沢美術工芸大学)
16:30〜17:30 トークライブ  「美術の先生が元気になる美術教育」 
       三澤一実(武蔵野美大),
       西澤明 (金沢大学教育学部附属中学校),
       荷方邦夫(金沢美大) 
                                    他交渉中!

 ワークショップでは近年高い評価を得ているプロジェクト「旅するムサビ」を招き,大学のエントランスを全面に使った鑑賞授業のワークショップを。武蔵野美大と金沢美大の学生がパネルディスカッション方式の鑑賞授業を行います。

 美術教育に関心のある学生,教員,研究者など多くの参加を心よりお待ちしています。「chirasi.pdf」をダウンロード

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November 09, 2013

先生は楽しそうな顔をしておく

  8日,金沢で開かれた国立病院総合医学会というところに呼ばれてシンポジストを務める。シンポジウムのタイトルは「看護教員の魅力を考える」。
 私も10年以上関わっているが,日本にはたくさんの看護学校・看護大学がある。看護師の数は学校教員よりも多いのかもしれない。その人たちが知識と技能を身につける看護教育には,おもに看護師を経験した人たちが担っている。その看護教員は慢性的に「足りない」のである。どうやったら教育に携わってくれる人たちを増やすか。そのためにどうしたら良いかと真剣に考え,こういう会になったのだという。私は,教育研究の立場から話をする役割である。

 看護学校の先生は,その多くがとてもマジメな人である。そもそも人の命を預かる看護師は,皆さん真剣でマジメだ。いつも真剣で責任感が強く,そのせいか学校でも皆さん相当にキビシイ。今どきあれほど厳しいのは,初中等教育には少ないのではないか,というくらいである。その先生たちが,真剣に,まじめに魅力を語ろうとしている。
 それを見ながら,尊敬とともにちょっとだけ天邪鬼の虫が騒ぐ。こんなにバリバリで真剣な人たちをみて,多くの看護師さんはどう思うのか。きっと私と同じように,尊敬もし,近寄りがたい存在に見えないだろうか。自分も,同じようになれると思える人が,どのくらいいるのだろうか。
 教師に魅力があるとすれば,そういう高い実力もさることながら,「先生ってなってみたら楽しそうだ」と思える要素も大事なのではないかと思う。「すごい」ことと「魅力的」であることは,必ずしもセットではない。

 そこで真剣な先生たちを前に,ちょっとギミックをかける。軽やかにステージに登り,満面の笑みでプレゼンをし,みんなを笑わせる。既にプロとしての腕を持つ看護師の皆さんにとって,先生になることはそれほど高いハードルではないこと。現に目の前の私をみたら,そんな気がするように振る舞う。そう,先生になろうかと思うキッカケとして,モノスゴイ人でなく,そして楽しそうにしていることは大事なのだ。
 
 別の視点で言えば,自分が生徒・学生であった時,学校が良いところで,楽しいところで,その中に先生がきちんと居ることを実感しないと。先生になんかなりたくはないものだ。その意味で,教員の魅力は「素敵な先生をやり通す,演じ通す」ことに尽きるように思う。

 終わった時,過去の教え子である看護師,今の看護学生に「いつも通りだったね,懐かしかった」,「面白かった記憶を思い出した」と声をかけてもらった。そう,私は学生の前ではそうあるように必死なのだ。

 そう。私の笑顔は決して生まれついての素顔ではありません。20年かけて,心からそうあるように磨き上げた,先生として筋金入りの笑顔です。作為ではいけないので,それが真の姿であるようにすること。それが最大の努力です。

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May 13, 2013

「美術の時間は楽しい」ことは諸刃の剣か?

 土日に,21世紀美術館で開催された美術教育研究のイベント「中学校美術Q &A in金沢」。全国の美術教育に携わる先生が集まり,実践と思いを共有しあう場として開催されている。また,学校教育の中で美術の位置づけが揺さぶられている(美術が選択になりそうだったり,そもそも要らないと言われたり)ことに対して,ぜひぜひアクションを起こしましょうよという声を大きくしていこうという会でもある。
 北陸を中心に若い先生からベテランまで,素晴らしい実践が報告される。学校教育の実践報告というのはともすると,「上手く行った,素晴らしいものができた」ことが強調されたり,ひたすら「熱い」思いが語られたりすることも少なくないが,報告された実践には深い理論に裏打ちされたものや,丁寧な結果の分析が含まれているものもあり,示唆に富むものが多かった。それ以上に,これほど意欲的に,周到に,そして考えて美術を教えようという先生がたくさんいることに強い感銘を受けた。
 もちろん「夜の部」も盛況。飲み会が成功する研究会は,良い研究会である。初めて参加した会なので,多くの新しい先生と意見交換。非常に収穫の多い時間だった。

 その中で思ったことを以下に。
・美術教育に関するほとんどの会,そして最も基本となる意見と合意は「美術は基本的に楽しいものである」「児童・生徒は美術の時間が好きである」。だからこそ学校教育の中からこれを奪うわけにはいかないというコンセンサスである。美術が苦手で仕方がなかった私ですら,この意見には全く賛成で,このコンセンサスに異論を挟む余地はない。しかし,ひょっとするとこの「楽しさ」というのが,「美術は学校の教科としてはいらないんじゃない?」と言われる最大のポイントなのではないかと考えた。
 それがどのくらいのウェイトを占めるかどうかは定かではないが,学校というものは「したくもないことをやらされるところ」であり,「苦しさや辛さを伴うことを余儀なくさせられる」ところという印象は少なくない。教師や生徒といった当事者以上に,学校を離れてしまった「一般の・普通の」人,社会といったものはここから話を始めることも多い。確かに,数学や英語を「楽しい」と思って勉強する生徒がどれだけいるだろうか。だからといって,これが教科から外せという声があるだろうか。
 むしろ,「ちっとも楽しくないけれどやっておかなければならなそうなもの」だから,無理矢理にでも学校でやるべきだと思われているところがあるのではないかと思う。楽しいものだったら,学校で無理にやらなくても,いくらでもやる人がいる。自分でお金を出して学ぼうとする人もいるだろう。学校で楽しいことをやるというのは,学校のイメージからして無駄に見えかねないのである。
 学校でやることは,自分に役立つこと。社会に有為なこと。この実用的(pragmatic)な発想は必ずしも好きではないが,数学や英語の例を挙げるまでもなく,学校教育は日本人が身につけておきたい力の獲得を支援するという視点から考えても。美術教育に携わるものはここを押さえておくべきかなと思った。
 これからの社会,科学技術がゆるやかなカーブを描くようになり,発展途上国が力をつけてきた今,感性とか,美しさを追求できるとか,そういうコンテンツで勝負することが絶対に必要になる。その時,一番の力となるのは美術を含めた芸術である。これから先,美術できないと差がつきませんよ,稼げませんよ。ちょっとイヤラシイけど,人はそれで動く気がしないではない。

・研究会の中で印象に残った言葉。一つは美術の振興をする時,それが「文化」であることを強調するという意見。そう,日本がこれからも世界の中で重要な役割を果たそうとする時,「高い文化」を維持できなければならないということをもっと言わなければ。
 また,学校教育がその根底の中に置くべきものとして,「安心」と「没頭」を提供することであるとした東大の秋田喜代美先生の主張は本当に共感するものである。学校は「子どもたちに失敗することを保障する実験と探索の場」というワルトフスキーの主張などにも共通するもので,芸術もその場の一つだということはやはり大事にしておきたい。

 そんなわけで,非常に楽しかったのである。

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August 03, 2012

iPadか,Airも必要か。

 木曜日は大学のFD研修。「iPadの教育利用について」。学内の3分の1以上の先生が,iPadを持っていてもいなくても参加。学内の教員で「使いこなしている」先生がいろいろ説明。普段からiPadを使っていたりもするが,とてもいい勉強になった。わざわざプレゼンソフトを用意しなくても,カメラで撮って並べるだけでも十分教材になるという取り掛かりは目からウロコ。Microsoft Officeも年内には使えるようになるという情報もゲット。
 今日から東京に出張。ここのところiPadだけで出張をこなしており,さらに今回は研修で学んだことを活かして,自炊したPDFを仕込んだりと準備は万端。しかしそれでも今回は悩ましい。「書き物」を一つ抱えているからである。iPadの最大のネックは文字入力。ソフトキーボードでは大きめのドキュメントにはキビシイし,携帯型のキーボードも意外に使い勝手が悪い。ケース型のキーボードを使うとAirを持ち運ぶのと変わらない。それならいっそAirを持ちだして,と思う。しかしながら今度は3GタイプのiPadがもつ「どこでもネットが使える魅力」は失われる。はっきり言ってiPadがあるとユビキタス生活がほぼ実現しているのである(それにしても,ユビキタスという単語,本当に死語と化しているな...)。
 今回はそう長くない出張で,さらにそれほどあちこち歩きまわることもないだろうと思われる。そこで試験的に,両方とも連れだすとどのくらい大変か,について検討することにした。AirとAC,そしてiPad。2キロ弱の重さ。それでもちょっと軽めのノートパソコンを持ち歩く程度でしかない。果たしてどうなるか。まずは体験してみるのだ。

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July 09, 2012

新しい授業資料をGET

Blog285
 しばらく前,授業の資料としてアレッシィのシトラススクイーザーを買った話をした。百貨店がバーゲンをやっている週末,今度は茶こしがバーゲンになっていたので,授業用資料として購入。D.A. Normanの受け売りそのままであるが,やはり生理的にも知的にも触発されるデザインである。いろいろな色があるが,手持ちのカップは白中心なので,取り合わせの良い黄緑を。


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June 27, 2012

教職課程6年制について

 ずいぶん前に,というか民主党が政権をとって間もないころに,この話題について朝日新聞の「私の視点」に掲載されたことがある。以下に引用

ーーーー2009年9 月17付朝刊 「私の視点」ーーーーーーーーーーーーーーーーー

民主党は総選挙で示したマニフェストで、学校教員の資質向上を目的とした教員免許制度の改革を訴え、大学の教員養成課程の修業年限を6年に引き上げ、1年程度の教育実習もとりいれて、充実した教員養成を行うとしている。
現在日本で教員免許を取得するためには、教育学部などの教員養成系学部で4年間の課程を修める方法がある。しかし実際には、一般の大学の文学部や理学部などでそれぞれ専門課程を学びながら、さらに教職課程とよばれる課程で60単位前後の科目を履修して免許を取得する方法もある。この制度は開放制教員養成制度と呼ばれ、教員養成を主目的としない大学でも教員の養成が行える制度である。
この制度により、文学部や理学部で数学や英語を専門的に学んだ学生、美大や音大で芸術の専門的教育を受けた学生などが教壇に立つことを可能にしてきた。また、高校の農業科や商業科などの教員は、農学部や商学部など専門の大学・学部で免許を取得することがほとんどで、教員イコール教育養成系学部出身者という理解は現在の事情を反映していない。その意味では、身近な大学から東大まで、多様な人材を求めることができる柔軟さを戦後一貫して維持してきたのである。
 しかし、マニフェスト通り6年制の教員養成制度が実施された場合、この開放制教員養成制度は事実上の崩壊をきたす。通常の大学は4年の教育課程であり、さらに教員を目指すために2年の専攻課程を併設することは多くの大学で事実上困難なためだ。仮に大学院でさらに2年間専攻の学問を学びながら取得を目指すとしても、1年間の教育実習が本来の課程を圧迫し、新制度への対応は困難である。
 そもそも、6年間の修業による教員の養成は、既に昭和63年に大学院で専門の教育を受けた学生に授与される専修免許状制度によって実施されている。この制度は現在も存続しているが当初の意義を失いつつあり、必ずしも教員の資質向上につながっているとはみられていない。むしろ教育現場では、教員になった後の初任者研修などの職場内訓練をより重視する傾向が強い。
現在現場で問題となっているのは、多忙過ぎるため、教員が 実際に生徒と向かい合う時間がなかなか取れないことや、教員としての本来の研修である教材研究や授業準備が十分ではないことである。
こうした事態を改善するために、民主党も経済協力開発機構(OECD)加盟国の平均並みの教員配置を訴えている。修業年限を6年にすることより、教員の数を増やすことのほうが、混乱が少なく効果的に、教育の質の向上につながる施策であると考える。

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 改めて思うのは,修士課程修了までの間にトレーニングを増やすことと,オン・ザ・ジョブ・トレーニングで若い教員を鍛えあげるのと,どちらがより有効なのだろうか。ここのところの私の調査を見るに,やはり先生は「学校で育つ」ように思う。現場で,それこそ大学院と行ったり来たりしながらでも研鑽を積むほうが,圧倒的な力になると思う。
 そしてもうひとつ,上に書いたように自由度の高い開放性教員養成制度を堅持するほうが,多様な人材を確保する意味でも有効なのである。

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February 26, 2012

小学校での教科担任制を考えてはどうだろう【留年問題】

 ここのところ小中学校での留年の是非が話題になっている。確かな学力を身につけさせるための方法として,履修期間を長くしてでも必要な水準は学習させるという視点,決して無い話ではない。しかし学力問題の解決は,1年という長い期間で留年をするというチョイスではいろいろな意味で問題があるだろうこともわかっている。たとえば小中学校で同一学年を繰り返せば,来年はみんなと同じ進度でいいのかというわけでもない。また,少しやり直すだけでも十分に伸びる子もいたりするからである。学力問題は単純に教授方法や教育課程の問題でもない。社会的環境や文化的な習慣まで,さまざまな要素を抱えているものである。

 ただし,学校という枠の中でこれを何とかしようとするなら,やはり教授方法や教育課程の問題として考えるしかない。補習機会を潤沢に与えることも重要かとは思う。そして何より,学習の初期でのつまづきは出来る限り防いでおきたいところだろう。その1方策として,小学校も中高と同じように教科担任制を導入するのは,それなりに意味があることではないかと思う。
 小学校の教員は,国語から体育までひと通りの授業ができるよう教育される。しかしながら,今日学校の教員養成課程もその内部では「専攻」があり,国語を中心にする学生も体育を中心にする学生もいるのである。その意味では,自分が得意とする分野を指導する方が,うまく教えるチャンスも増えるのではないかと期待するのである(期待,である。できるかどうかは実は難しい)。
 確かに小学生の場合,一人ひとりをよく知って対応することも大事である。そのための学級担任なのだが,塾通いなどをする子たちを見ていても,おそらく中学年以上では教科担任制でも十分にいけるのではないかとも思う。
 また教科担任制にすることで,教員の数を調整したり,柔軟に運用したりすることもある程度叶うのかなと思わなくもない。あるいは補習などを開くときにも効果を発揮するのではないだろうか。
 ガチガチに教科担任制にしなくてもいい。国語や社会をもつ先生,とか。理科と体育はこの先生とか。緩やかな専科制を取り入れるのは意外にうまくいくのではないかと思う。
 

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September 09, 2011

過去の自分をいじるというSM

 ふと古い書類を整理していたら,10年前に大学に来た時の「新入教員紹介」が出てきた。

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大学の先生という「お仕事」
一般学科講師 荷方邦夫

 教わる人より「先に生まれた」、という理由で自分の知識や技術を伝える役割の人。それが先生の語源でしょうか。もっとも古くから存在する「情報産業」の一つかもしれません。生まれてこのかた30年、この先生という仕事と密接に関わってきました。両親ともに学校の先生で、長兄も先生。親戚にもたくさんの先生がいます。幼稚園から大学院までの25年間は「先生」のもとで勉学をしました。大学入学からの10年は、予備校や塾で国語や社会を教え、大学や専門学校の非常勤講師、はては合唱団やブラスバンドの指導者と、「先生」と呼ばれる世界ばかりを歩いてきました。大学で学んだ学問は「教育心理学※」、人生そのものが先生と生徒(学生)を見つめる毎日ともいえるでしょう。
 そんな男がこともあろうに美大の先生になった。果たしてどうなるのか?。蓋を開けてみると予想以上に多くの仕事があると分かりました。講義はもちろん、大学に関わる事務や運営、学生相談室のカウンセラーもやっています。さらには研究や著作、その他エトセトラ…。ひょっとして先生というのは「先(ま)ずは生きている」の略だったのかな?
 そんなこんなでバタバタした毎日を送っていますが、やはり中心になるのは学生のこと。どういう仕掛けで学生に知識を伝え、どうやって一人一人を理解し、立派な大人になろうとする君たちをサポートするか。そんなことばかりを毎日飽きずに考えています。
 もともと人が大好きで、人前にでることも大好き。小さい頃は音楽家や役者のような、ショービジネスにあこがれていました。その結果選んだステージが、教壇という場所。演じるプログラムは、心理学という人に関わる世界です。これからも、力の限り先生であり続けたいと思います。ともかくは、学生の皆さんより先に生まれたのですから。
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 そんなことを考えていたのか。確かに学校の機能として,「若い人を今より大人・市民にする」ということを念頭においているのは今でも同じかも。先生が「先ずは生きている」の略くらいに思っているのも変わらないか。でも10年経って,教員として生きることの位置づけにあれこれ理由をつけなくなったし,先生であることに努力を意識しなくなったことも確かだ。悲しいかな,今は何をしても先生にしか見えないという有様かもしれない。
 こんなのが出てきたのは汗顔の至りなのだが,どS なので,自分に対するサディスティックな行為としてまあご披露。

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